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CWS創作学校

創作ベーシックコース

STEP1 テキスト1 課題「月」 評価:3

課題作品「うそつきの月」受講生名:Y.F.

 その日、僕と弟は、二人っきりで家にいた。祖父母がいないのも、はじめてだった。
 早速僕らは、家中の扉を開き、引き出しを覗き見、宝物になりそうなものを探しはじめた。転がしたり、逆さにしたり、床の上にぶちまけたり。
 夜になり、宝探しに飽きると、祖父の部屋に忍び入った。書棚の扉を開けると、子ども向けの文学全集や百科事典が、ぎっしりと詰まっていた。僕らが生まれた年から、祖父が少しずつ買い揃えたものだった。(1)百科事典の『星と宇宙』が特に僕らの気に入っていた。

「月のしっぽって、いつ、見えるんだ」と弟が聞いた。僕は「海の上じゃないと見えないよ」と、あてずっぽうにこたえた。二人は派手な天体ショーを期待し、想像した。
『月のしっぽが地球を撫でる』
 磁力について書かれたその頁には、白く輝く月から光のヴェールが垂れ、ふわりと地球になびく様が、描かれていた。僕らは紙に折り目をつけ、いつでも開いて見られるようにした。
 暫くは頁をめくっていたろうか。そのうちに二人とも床に寝そべって眠りこんでしまった。
 ピキッ、チャリ、そんな音で目が覚めた。僕らは顔を見合わせ、そろりと起きあがり、部屋の様子をうかがった。祖父の机でガラスの灰皿が真っ二つに割れていた。灰皿は四角く、琥珀色で、中にいくつも気泡を含み、キラキラ光って見えた。チャリリと鳴ったのは中に入っていたコインが弾かれて落ちた音だった。
 弟が割れ口を指でなぞり、つるつるしてる、と言った。僕も触ってみた。面に凹凸はあるが、破片の一つも散ってはいない。
 ほどなく母が帰ってきた。それからいっぺんに皆が揃ったようだった。すぐに祖父が亡くなったという知らせが届いた。
 それから後のことは良く覚えていない。記憶はぷっつり途切れている。
 次に記憶が鮮明になるのは、喘息の発作で病院に担ぎ込まれた(2)夜だった。
 すっかり弱気になった僕の傍らで、治人(はると)がすんと黙りこくっていた。夏休みの二日目だった。母は末弟の秀(しゅう)を早産し、入院していた。僕らは初日を無為に過ごしたことを反省し、学校のプールに泳ぎに行ったのだった。
 声をかけても、治人は黙っていた。暫く経ってから、ぽそりと言った。
「死ぬかと思ったんだ」
 僕と治人は誕生日が一年と離れていなかった。双子ではないが、同じ学年だった。それまで、二人の間に距離があるとは、思ってもみなかった。(3)たぶん、その夜からだ。僕たちは、互いの違いをはっきりと意識するようになった。
 それっきり、言葉も交わさなかった。

 7時過ぎに父が迎えに来た。僕たちは別棟へ行った。母と秀に会うためだったが、秀には逢えなかった。母似だと云うが、僕と治人はまだ顔を見ていない。
 母は僕を見るなり両手を差し出して手招きした。「自分で気をつけないと」と、言いながら僕の髪を撫ぜまわした。僕はただうんうん頷いた。
 父は車で来ていた。助手席に僕と治人の麦わら帽子が乗っていた。まもなく僕たちは祖母の家に着いた。祖父が亡くなってから、僕たちは父の会社の寮に入り、いまは祖母が一人で住んでいた。戸がカラカラと音をたてるのが懐かしかった。父はトランクを開け、「順哉(じゅんや)、まだ上がらないで、戻って」と、ナイロンのボストンバッグを僕と治人に一つずつ持たせた。
 祖母は父が運び込んだ箱を開け、中から出した服を一枚ずつたたみながら「明日、梨香と朔也(さくや)も来るからね」と言った。父は「そう」と言ったきりだった。梨香というのは叔母で、朔也は同い年の従弟だった。
 翌朝僕が起きたとき、父はもういなかった。そのかわり、叔母と朔也がいた。僕らは三つ子みたいに仲が良かった。朔也が叔母を「梨香」と呼ぶので、僕らもそうした。朔也がTシャツの袖を捲っているのを見て、僕らも真似た。そんなに打ち解けても、昔、皆がいっしょに住んでいた頃のことを、どうしても思い出すことができなかった。「病気のせいだよ」と言って治人は僕を慰めた。
 その年の夏の暑さは異常だった。母はなかなか回復せず、暫くは秀とともに実家で過ごすことになった。
 僕は僕で何度か喘息の発作を起こした。父がやさしくなった。祖母は僕をいたわり、治人までが、僕を遠目に見ているようになった。皆の気持ちがつらく、喘息になってしまった自分に腹が立った。けれども、一番悲しかったのは、父と治人が僕をおいて母の実家へ行ってしまった時だった。前の晩に発作を起こしたばかりで、僕はどうしても行きたかったのに、父は許さなかった。発作が過ぎてしまえば健康な子供と変わりない。僕は一人取り残された悔しさから、祖母に黙って家を出た。父と治人が帰る頃に、自分は母の実家に着いている算段だった。けれども、僕が着いたとき、父の車はまだ家の前に止まっていたどうしようかと思いながら見ていると、玄関から治人が出てきた。ああ、もう帰るんだなと思ったその時、母の姿が見えた。父は秀を抱いていた。父も母も笑っていた。治人は弾むように助手席に飛び乗った。(4)やがて車は走り出し、あっという間に見えなくなった僕は呆然として暫くぽうっとしていた。ふいに涙が滲んだ。その時、僕ははじめてほんとうにひとりぼっちだった。

 僕は留まる場所も知らず、ただぐるぐる歩きまわり、帰りの電車に乗り渋っていた。いよいよ切符を買う段になってはじめてお金が足りないことに気づいた。絶望的な気分とはこういうものだとその時知った。けれども、ひとりなんだという思いが逆に自分を強くした。歩いたって家に帰れる。そう決心して、線路沿いに歩いてゆくことを思いついた。歩きはじめたら、もう悲しい気持ちはなくなっていた。やがて、僕の前を同じように歩いている少年に気づいた。僕は追い越すつもりでどんどん近付いていった。ふいに少年が振り向いた。立ち止まって僕を待っているので、困ったな、と思った瞬間、「順哉」と聞いたふうな声が耳に飛び込んできた。
 朔也だった。僕らは互いに、にっと笑い合った。そんなふうに奇跡的に逢えたことが、嬉しくて楽しくて仕方がなかった。僕はほんとうに朔也を好きだなあ、と思う。たまに逢った最初はいつも懐かしい気持ちがするのだ。
 僕は昨晩から今までのことを話した。話はすぐに尽きてしまったが、朔也は暫く考え込んでから、話しはじめた。
「梨香も、自分はひとりぼっちだと思ってるんだ。僕がいるのに。それで、ときどき、僕のことがすごく可哀相になるみたいなんだ」
「どうして」
「梨香は父をすごく好きだったんだ。だから僕を生むとき、父の遺伝子の、そのまんまで生まれて欲しいと願ったんだ。僕が女の子じゃなくて、ほんとうに良かったって。最近、梨香は、年ごとに、僕が父に似てくると言うんだ」
 僕より朔也の方がずっと深刻のようだった。
「もう梨香は、僕をおいて、どっかへ逃げてしまいたいと思ってるみたいだ」
僕はびっくりして朔也の顔を見つめた。朔也は「そうしたら、ふたりでお祖母ちゃんの子になって暮らそう」と、笑いながら言った。
 僕たちは来た道を引き返した。朔也は僕を駅前のホテルに案内した。「ここに泊まってるんだ」と言って、朔也はずんずんロピーを横切っていった。昨日、「プールへ行く」と話していたのを、旅行に行くのだと勘違いしていた僕は、合点がゆかぬまま黙って朔也に従った。
 梨香は驚いて僕を迎え入れたが、理由を尋ねはしなかった。僕たちが「プールで泳ぐ」と言って部屋を出ようとすると、梨香は急に自分も行くと言い出した。
「だって仕事は?梨香、泳げないでしょ」
「泳がなくったって、日光浴ぐらいするのよ」
 結局、梨香はパラソルの下にチェアを置き、そこから一歩も動かなかった。レモネードを一度オーダーしたきり、グラスに残ったレモンをかじりながら、黙って僕らを見ているだけだった。
「ほんとうは海で泳ぎたいんだ。でも梨香がだめだって。海じゃ、誰もパラソルを用意してくれないからさ」
「夜に泳げば」と、ふいに思いついて言った。朔也が「夜の海か」と呟いた。夜の海を撫ぜる『月のしっぽ』が見えた気がした。僕は祖父が亡くなった夜のことを話してみた。朔也は知らないだろうと思っていた。ところが朔也は、こともなげに話を続けた。
「あのガラス、梨香がボンドでくっつけて棚の奥にしまったんだって。帰ったら確かめてみよう」
(5)おやと思った。朔也は本に折り目をつけたことも覚えていた。僕はすっかり混乱してしまった。いっしょにいたのは治人ではなかったろうか。皆より先に帰って来て、あのガラスの割れたのを見つけたのは、母ではなかったろうか。

「どうしたの、順哉。気分が悪いの?」と梨香が聞いた。梨香はもう一泊の予定をキャンセルし、僕たちはタクシーで家に向かっていた。
「プールで泳いだこと、お祖母ちゃんに言わないで」と僕は言った。ほんとうは、そんなことはどうでもよかった。
「お祖母ちゃんはそんなことで叱ったりしないよ。だいじょうぶ。順哉の喘息は、大人になったら何でもなくなるんだから」と、梨香はきっぱり宣言した。
 父の車が目に入った。僕は沈んだ気持ちでタクシーを降りた。朔也が先に立ち、僕は後に続いた。戸はカラカラと音をたて、僕たちの帰りを告げた。治人が走り出て来た。僕は靴を脱ぎかけ、母のサンダルを見つけた。あっ、と思った。駆け上がって居間にゆくと、「順哉の顔を早く見たくて来たのよ」
と母は笑って言った。僕は今日のことを決して母には言うまいと誓った。その夜、僕は『月のしっぽ』を知っているか、治人に聞いてみた。「知らない」と治人はこたえた。
 翌日、治人が秀に夢中になっている間に、僕と朔也はこっそり祖父の部屋に忍び入った書棚も机もそのままだった。朔也は書棚の扉を開き、『星と宇宙』の巻を手に取った。折り目をなぞって開いたのは、『月のしっぽ』の頁だった。いまではそんなものは見られないと知っていた。けれども、その絵の情景を、僕らは何度も心に思い描き、夢に見ていたのだった。ガラスの灰皿は、一番下の引き出しの、一番奥から見つかった。(6)僕はそれを机の上に置いた。表面をなぞってもわからないほど、正確に合わされていた。けれども透明なガラスの割け目は隠しようがなかった。梨香が、引き出しの奥にしまって誰の目にも触れさせまいとした気持ちが、痛ましかった。

 双子は、僕と朔也だったんだな、と、その時は、漠然とした思いではあったが、わかっていた。朔也にも言うまい。梨香にはいつか話すと思う。けれども、いまは、何も知らないふりをとおすのだ。僕は心にそう決めた。決めてしまうと、強くなれた気がした。
 その夜、夢にのぼった月は、琥珀色のガラスのまんまるで、中に含んだ気泡がきらきら光って見えた。ああ、四角いガラスの窪みを、まるく切り取ったカケラだな。僕は夢で呟き、さらに深い眠りの淵に落ちたのだった。

添削講師名:I.M.

【総評】

 はじめまして。今回から1ステップの3回の添削を受けていただくわけですが、この講座の目的は、新人賞の一次予選通過に必要不可欠な基本のルールと技術を学んでいただくことにあります。(後略)

※以降、作品全体に対する総評がつきます。

【添削】

(1)百科事典の『星と宇宙』が特に僕らの気に入っていた。
文法的に正しいのは、
 A百科事典〈が〉僕ら〈は〉気に入っていた。
 B百科事典〈が〉僕らの〈お気に入りだった〉。
 C百科事典〈が〉僕ら〈の〉気に入っていた〈ものだった〉。
 の、いずれかでしょう。

(2)夜だった。
 この一編は、語り手〈僕〉がある時点から、回想をしながら、物語(ストーリー)を語っていく、という時制が選択されていますね。つまり「過去形」でストーリーが展開されていますね。しかしながら、途中で現在形が挿入されていたり、それとまったく同じ時なのに過去形で処理されていたり、チグハグになっている箇所が見受けられます。そこが全体的な統一感(=統制的物語進行)を損なっている原因でしょう。
 こういった、時間軸の推移が要となるようなストーリーの場合、安易に過去形で処理するのがベストなのかどうか、熟考してください。
 以上のことを踏まえた上で、若干文法的なレベルに話を戻せば、1センテンスのなかで時制が動くのは避けましょう。ここでは、「鮮明になるのは、」と語っているのは、記憶を記憶として回想している「あの夜」よりも未来にいる〈僕〉ですから、「夜のことだった」とするのが正しいですね。「夜だ」のままだと、記憶喪失が起こり、次に記憶が戻ったのは「あの夜だ」となり、語り手の時制が「あの夜」にあるように、読み手は捉えることになるでしょう。

(3)たぶん、その夜からだ。僕たちは、互いの違いをはっきりと意識するようになった。
それっきり、言葉も交わさなかった。
 ここの展開がどうにも読みきれませんでした。「その夜」とはいつでしょうか?
「それっきり」とはいつまでが「それっきり」に含まれているのでしょうか?おそらく、「双子じゃないのに、誕生日が一年はなれていない」という最大のサスペンスをほのめかすために、ある部分は明らかにし、またある部分はいまだ語らずにあるのでしょうがどうしてもこういった読み手の意識(意図)があらわになる部分では、注意を払わなくてはなりません。このままでは、この2.3行がなにを意味するのか、掴めないままでしょう。

(4)やがて車は走り出し、あっという間に見えなくなった僕は呆然として暫くぽうっとしていた。ふいに涙が滲んだ。その時、僕ははじめてほんとうにひとりぼっちだった。
 ここは強い感情の動きをともなっていますね。総評でも詳しく書きましたが、紋切り型で表現してしまっては緊張感が切れてしまいます。「あっと言う間」や「呆然としてぼうっとする」や「ふいに涙が滲む」と書かずに、具体的にどう書けば、〈僕〉が抱いた「ひとりぼっちだ」という強く厳しいエモーションを十全に表せるかを、考えてください。とくに盛り上がりどころですから、効果的な比喩を使ってみるなどのひと工夫を。

(5)おやと思った。
 わざわざ書かない。〈僕〉がおやっと思ったことは、読み手だって知っています。読み手のほうこそここで「おやっ」と思わせたのだから、「本の折り目をつけたことも覚えていた」と畳みかけましょう。

(6)僕はそれを机の上に置いた。表面をなぞってもわからないほど、正確に合わされていた。けれども透明なガラスの割け目は隠しようがなかった。
 このあたりの隠喩的な灰皿の描写は素晴らしいですね。冒頭の、いかにも仲のよい兄弟たちのやんちゃぶりが、ここにちゃんと伏線として帰結されていて、うまくできていますね。あとは講評のなかで述べてきた、ナレーションの側面に注意を払いながら、課題を書き進めてください。

★実際の添削は、主に、A4横置き、縦書きでお届けしています。詳しくはeラーニング操作方法をご覧ください